写真と算数と奇跡
現在おもに使っているカメラ2台。
イコンタとライカ。
出来た写真を見るのももちろん好きだけど、それと同じくらい、もしかしたらそれ以上に撮るという行為自体が好きだ。
我々がフィルムカメラが好きな理由は一体何だろうと考えた。
フィルムの質感とか?
正直に言うと、俺には、その差はよく分からない。なんとなくくらいしか。
装填も巻き上げも巻き戻しも、手間がかかる。
そんな手動所作が楽しいのか?
もう当たり前すぎて、感動しなくなったが。
ひとつ。
フィルムカメラは、加速度的現代生活において、心の安らぎではなかろうか。
もちろんそれは、一部の人間にとって、だ。
アナログレコードと同じように、一部の人間にとっては、それが生活の中に当たり前に存在するモノなのだろう。
当たり前に自然にあり、それでいてそれがすでに時代に沿っていない、過去のモノだということを知っている。
せかせかせず、密かな小さな喜びを一人占めしたり誰かと共に楽しんだりする。
最新のデジタル技術を何の疑いも感動もなく受け入れられるのに、フィルムカメラで撮って、普通に写っているだけで、「おお〜」と驚き、感動する。
Wi-fiだ5Gだリアルタイムだ共有だAIだ
にゃんだソレ
猫を見ていると、そんなの、なんだかどうでもよくなる。
と思いつつ、シャッターをパチンと切る。
これが日々の小さな喜び。
そんな小さな喜びを生む行為が、現像されて、一枚の思い出になる。
素敵なことだと思う。
新たに入手したズミタールは、とてもいいレンズだ。まだプリントしてないけど、もう分かっている。
解放f値2.0という安心感。それ故に、ものすごいハイペースで撮っている。
プリントしてないのに、撮れた だの、いいレンズだの、おかしなことを言っている。
プリントしなくてももう分かっている。
分かりきっている。
なぜなら、撮ったのは俺だから。
みんな、自分が撮った写真を、もっと好きになっていいはずだ、と、友人に偉そうに語った。
好きなものを撮ったのだから、そんなの当たり前だ。
勉強して計算して撮った写真は美しい。でも、それが思い出に残るかどうかは別だ。
合格点が欲しくてシャッターを切っているんじゃない。
構図もなにもかもメチャクチャでいい。
まぐれでもいい。
カメラ雑誌で得た知識なんて、捨ててしまえばいい。解像度や数字が優れていたとして、だから一体何だというのだ。そんなのどうでもいい。写真は算数じゃない。
俺らは数字なんかじゃ到底計れないものを撮っているのではなかったか。
思いや、思い出は、いつも心にある。
写真にすることで、思い出をカタチとして手に取ることができる。写真を撮った人と、撮られた人の思い出になる。
写っているのは、俺自身であり、あなた自身だ。
きっとそうだ。
なんて、ぼんやりと。