イコンタ同盟

This is love.

眼球譚

 

なぜ、モノクロフィルムで撮るのか。

そもそも、なぜフィルムで撮るのか。

 

始まりは、ふとしたきっかけだったと思う。

 

物事や事物の理由や意味を突き詰めていくと、今、自分が生きているということ、存在しているということにすら疑問を持たずにはいられない。

 

我思う、ゆえに我あり

というのは、デカルトの言葉である。

 

 

 

さっきGoogleで調べたから間違いない。

 

 

 

 

この言葉は、サルトルの「嘔吐」という作品の中で主人公のロカンタンが呟いていたと記憶している。

 

 

故・開高健が「嘔吐」を読んで、

ひとつひとつの言葉、文字が勃起してみえる

と評した。

 

自分の中でも、読書の新たな扉を開いたような気がした。

 

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」にもチャレンジしたが、さっぱり分からなかった。

 

私の言語の限界が、私の世界の限界である。

 

たしかこんな言葉だったかな?

 

これも妙に納得する言葉。

 

つまり、おおよそ知り得ないことについては語ることや思考することすらできない。

 

たぶん。

解釈が合ってるかどうか分からん。

 

この言葉と、ジョージ・オーウェルの「1984年」とが見事にリンクした瞬間だった。

 

 

なぜ写真を撮るのか。

なぜフィルムで撮るのか。

なぜモノクロか。

 

デジタル写真は写真ではないのか。

なぜそう言えるのか。

なぜそう言えないのか。

 

フィルムで撮れば本物なのか。

真実を写すのが写真なのか。

写真は、真実を写しているのか。

 

 

モノクロで撮れば真実なのか。

 

 

 

色彩を排除した時点で現実とはかけ離れている。

 

カラーで撮っても、実際に人間の目で見た色味とは異なる場合もある。

 

ならば、写真には一体なにが写っているのか。

 

写真の意味を考えることは、無意味なのか。

 

無意味なことに、意味はないのか。

 

意味がないことは、無駄なのか。

 

 

そもそも真実とは、何なのか。

 

みんな、悩んでいる。

 

人に同意を求めたり、批判したりしながら、自分が間違っていないかを測る術を探している。

 

 

 

ただ、人差し指でシャッターを切るだけのことなのに。

 

俺の眼球はどこを見ている。

 

 

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俺の左眼は、斜視のせいで、いつも外側を向いている。

 

人と目を合わせることや、顔を見て話すことは、とてつもなく苦痛である。

赤の他人に勃起した下半身を見られるよりも恥ずかしい。

 

両眼視・立体視できないので、おそらく他人が見ている世界と俺の世界には、違いがあると思われる。隔たりがあると思われる。

 

距離感を掴むことも、得意ではない。

 

残念ながら3D映画やVRゲームは、一生楽しむことができない。

 

右目でファインダーを覗いていれば、普通は左目は閉じているものだろうが、俺の場合、左眼が開いていようと閉じていようと、意識しなければ左眼の視界はゼロに近い。

力なく瞼を開いたまま、死人の目のようにどこかを見ている。

 

左目でみようとすれば、今度は右目の視界が奪われる。

 

いくら両目で見ようとしても、中央へ寄り目になって、前方の視界はボヤけるだけだ。

まっすぐに前を見ようとしない両目に、悔しくて腹が立って泣いたこともある。

 

だから、写真を撮られるのはすごく嫌だ。

面接や証明写真を撮るときなんか、必死だ。

 

 

親や兄弟にすら馬鹿にされたことだってある。

 

恨んではいない。

だが、俺は一生忘れない。

 

人を傷つけることは、とても簡単だ。

 

この俺の気持ちなど、普通の人には誰にも分からないだろう。

他人の目が怖くて、顔を背けながら、ひねくれながら、35年間生きている。

 

心の奥底の一部に冷たい風が吹いて、静かに加速度的に侵食していく。壊死していく。

死んだ心は、生き返らない。

 

 

なんだか暗い話になった。

 

他人に自分の眼のことについて話したことは今まで一度もない。

みんな気づいているだろうが、何も言わない。

 

妻とは結婚する前に、話した。

こんな俺でいいのか、と。

 

初めて人に話した。怖くて手と声が震えた。

 

妻は、気づいてたけど、そんなことどうだっていいやん!と笑いながら泣いた。

私は、アナタのその目が好きだと言ってくれた。

 

俺と結婚してくれた妻に感謝する。

愛している。

 

 

 

コンプレックスが武器になる

 

それが、慰めの言葉でしかないことを知っている。今後もそれは変わらない。救いようがないこともある。

 

現実は、苦痛の連続だ。

 

左眼をえぐり出してやりたいと思うこともあった。

 

 

目の前にある世界を、ただ「見る」という行為すら、特別なことだと感じる瞬間がたまにある。

 

写真行為によって世界が平面化される。
それは、俺がいつも見ている世界に、たぶん近い。

 

 

ファインダーやレンズは、俺の眼球そのものだ。