写真の激しさ
いいね!
自己肯定感を高める不思議な言葉である。
誰だって嬉しい。いっぱい欲しい。
いいね!の為に投稿している訳じゃない?そんなのウソだぜ。クールぶってるんじゃないよ、まぁそう熱くならさんな。
私は素直に嬉しい。あぁ、自分の写真をいいねと思ってくれる人がいる。俺って、薄々気づいてたけど、もしかしてセンスあるんじゃない?
なんて思える。
私は、自分に甘く、人に厳しい。
いいねと思わない写真には絶対にいいね!なんて押さない。
そんなことしてたら、自分にとって何が良くて何が良くないのか、感覚が麻痺してくる。たかがSNSだが、それだけ現代人の生活に密接に関わっていると思う。
スマホやデジカメの普及で、写真がとても身近な、気軽な存在になった。
写真を撮る楽しさは、今や、一部の趣味人だけのものではなくなった。
とても素晴らしいことだと思う。
その一方で、「写真」という言葉が意味するものは、大きく様変わりしたように思う。ひと昔前は家族や友人や親しい者同士で見て楽しむものだったが、今はどうだ。
インターネット、SNSの普及により、写真は不特定多数、名前も顔も素性も知らない人に見せるものになった。
個人情報漏洩がどーのこーの言っている時代に、自身のプライベートを自ら世間に公表する。子供の写真も載せる。オシャレなカフェでの昼メシまで載せる。
誰が興味あんだよオメェの昼メシなんかよ。
数年前からよく聞く、見かけるようになった、アウトプット という言葉は嫌いである。
インプット/アウトプット って言葉は、物事を、事物を、写真を、冷静に見すぎている感じがする。
自分自身を冷静に捉えてます みたいな賢ぶりたさが見え隠れする。
「アウトプット」という言葉を使いたいだけ。
そんで、ゆるフワ写真なんか撮って詩的な言葉を添えたりするんだ。
言葉で説明しなけりゃ写真が成立しないのか。それを「表現」と言うのか。「アートだ」とでも言いたいのか。
もっと熱くなれ。
写真は、もっと激しいものであっていい。暴力的であっていい。
過激なエロ グロを撮れと言っているのではない。
感情的であってもいいという意味である。
無論、それぞれ各人の好み、スタイルがある。大いに構わないし、それでいいとも思う。私みたいなシロートがネット上の端っこで言ったところで一瞬で忘れ去られることも分かっている。
しかし、
アラーキーではないが、
もう我慢の限界です。
愛のドス黒モノクロフィルム写真で、ゆるフワにっこり夏サイダーみたいな写真を意味不明墓地に埋めてやりたい。
個性的というジャンルのありふれた写真を、天才という名のレールに乗っけて「ド平凡」という名の谷底に落としてやりたい。