イコンタ同盟

This is love.

Important

このブログのタイトルを「ジムニー同盟」にした方が良いのかも知れない。

 

うそ

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ディーラーからやっと連絡があった。

「11月のアタマには納車できます」

「ロイ様のジムニーは、10月末あたりに生産されます」

 

ほんとか?おい、ぬか喜びに終わらせんじゃねーぞ、期待しないでワクワクしながら待ってやんよ。

 

ということで、おそらく遅くとも11月中頃には晴れてジムニーオーナーとなっているだろう。

 

長い4ヶ月間だった。

 

待っている間が一番楽しい、なんて嘘よ。

 

そんなこと言う奴ぁ、一生納車されなきゃ一生楽しいのか?あ?おい。

 

契約から3ヶ月経った時点でイライラはピーク。

俺は気が短いんだ。

それ以降は、年内納車はムリなんだと自分に言い聞かせ、平静を保つことにした。

インポになりそう。

僧侶か神父になれそうな勢いだ。

 

スマホを触れば情報検索。

出てくるのは、ジムニー1年待ち!?の記事ばかり。インポになりそう。

 

youtubeの試乗動画はどれもこれも似たようなもんばかりで、見飽きたインポになりそう。

 

JB23乗りVS JB64待ち

 

23のデザインが糞ダサいと言えば

64のデザインだけで買うニワカだと反撃

 

どっちも真実やからしゃーなインポになりそう。

 

 

バリバリに改造した23乗りの、どノーマル64へのヒガミがひどそうンポになりそう。

 

 

9月中頃に楽天で買ったサイのスペアタイヤカバーが和室に広げたまま放置ンポになりそう。

 

そしてやっと前述のディーラーからの連絡。

 

インポ回避。

 

俺は優越感に浸りながら、下位グレード軽自動車で、この片田舎を悠々として流すのだ。

 

 

 

病んだ状態が普通の現代人には、なにが心の拠り所であろうか。

カネ、服、クルマ、女、いいね!の数?

 

金があれば大体のことは解決できる。

命に関しては、金を積んでもどうにもならない場合はあるが。

スケールのデカい話は胡散臭いので、しない。

広義で物事を包むのは簡単だが、大体は綺麗事で終わり、あやふやで崇高でいて幼稚な言葉を使わざるを得ないことになる。

 

好きな服や音楽や食べ物、好きな人、好きな場所、好きな車、好きなカメラ、好きな煙草。

 

これだけ好きなモノに囲まれているのに、なぜ人は、少なくとも、なぜ自分は満たされている、幸せだと素直に言えんのか。ワガママなんだろうな。

 

 

こんなセリフを思い出した。

 

「幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」

 

アンナ・カレーニナトルストイ

 

自信なかったのでコピペ

人間図鑑

 

以前、インスタでサラッと告知した11月のイベントに向けて準備をすすめている。

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準備、といっても何かカメラやレンズを買い足したり、フィルムを爆買いしている訳ではない。

 

イメージトレーニングだ。

 

 

 

カメラは、何を使うか。何で撮るか。

 

これは、写真を撮られる側や写真を見る側にとっては、ほとんどどうでもいいことではある。

 

だが、写真を撮る側にとってはとても重要な事柄だと思っている。

 

俺は、ロマンチストであるから、イコンタかライカとエルマーで撮りたい。

 

しかし、今回は、人様に依頼された撮影である。

ロマンだけでシャッターを切って、ろくにまともな写真が撮れなかったらどうなる。

 

これだけ写真とは何か、を散々語っておいて、できた写真はソレかよ!その程度かよ!

では話にならん。

 

期待してくれている依頼者に、期待以上の写真を見せるのが、最低ラインだと思っている。

 

てことで、まともな思考で普通に選ぶとすれば、ニコンFである。

レンズだってf1.4のNikkorがある。135mmだってある。なんならズームレンズを買い足してもいい。

今までFにトラブルはないし、頑丈そのものである。一番信頼できるカメラだと言っていい。

 

実用一点張り。質実剛健

 

しかしだね。

 

重いしデカイ。シャッター音は大きい。(一眼レフカメラの中では静かな方だとは思う)

 

そう考えると、やはり出番はない。

 

ここでようやく出番が来たのは

 

コニカSⅡ

 

レンズシャッターHEXANON48mm f2.0のレンジファインダーカメラ。

見た目は、不細工だ。

レンジファインダーカメラとしては大柄だが、シャッター音は小さい。

ファインダーはとても見やすく、ブライトフレームもクッキリ見える。

 

撮られる側からしたら、

そんなので撮るの…?なんて思われそう。

 

なんだろ。

一眼レフってカメラに興味ない人からも、やっぱり認知度が高くて、これを使っていると撮られる側も安心感が高そうなイメージ。ちゃんとしたカメラ。

デカいシャッター音も、わぁ、一眼レフだ、本格的…なんて言われたことがある。

 

世間のイメージなんて、たぶんそんなもんだろう。実際にFはプロ用一眼レフだしなぁ。

 

撮影の要望としては、

 

フラッシュは使わない

出演者を撮る

 

これだけ。

 

俺はカメラマンではない。

自由にやらせてもらう。

とりあえず出演者はサラッと撮っておいて。  (おい)

会場に集まったお客さんを撮りたい。

夜の群衆を撮りたい。

暇そうに、つまらなさそうに持て余している瞬間の客を撮りたい。

居心地が悪そうに端っこに座って酒を飲む人を撮りたい。

薄暗い便所で立ち話をする人を撮りたい。

なんでもない瞬間を撮りたい。

 

バーカウンターに置いてある飲みかけの洒落たカクテルになんぞ興味はない。

 

人間が写っている写真ほど、強いと感じるのだ。

 

 

撮影者の意図や意思など、写真を見る側には視えない。

視えるのは、複写され平面化された写真だけだ。

 

フィルムかデジタルかなんて、どちらでも良いのである。

 

俺は小さな意図や意思や叫びや祈りや何かを、密かに誰にも気づかれないように写真に忍ばせる。

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小さなこと

 

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淡路島へ行ってきた。

これは、道の駅。

 

 

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淡路島SAのでかい観覧車にも乗った。

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20年以上振り。ちょっと怖かった。

結婚して5年、初めて知ったのだが、妻は高所恐怖症らしく本気で冷や汗をかいていた。

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この日はスーパーシックスのみを持って行き、淡路の空と海と妻を撮った。

 

 

 

Fでは重いし、ライカだとムダにシャッターを切る回数が増える。

 

思いつきの日帰りブラリ旅には、中判の蛇腹式カメラが丁度いい。

 

ふと思う。

 

近くにあるものを撮らなくて、

 

いや、近くにいる人すら撮れなくて何が写真だ。

 

これは他人ではなく、自分に向けた言葉だ。

 

批判と懐疑と妥協と愛と確信をもって、気まぐれに写真に挑む。

 

 

そろそろジムニー買わないか?

タイトルは、完全にパクリな上に、語呂が悪いことを許して欲しい。

 

ブログでは何度か書いただろうか?

俺の新型ジムニーはまだやって来ない。

(インスタでは散々ボヤいている)

 

インスタで、納車された人の投稿を見ると本気で羨ましい。

 

「ほ〜、かっこいいなぁ、やっぱりキネティックイエローにしとけば良かったなぁ。でもXCやXLならオートエアコン、オートライトだしいらんよなぁ。(グレードによって選択できるカラーが違う)

やや、グレーもかっこいいなぁ。

というか、シルバーも全然アリだな!むしろジムニーらしい!(車の色でシルバーを選んでる奴はダサい と思っています)

ブルーは…、うーん、なんか違うなぁ。

アイボリーは、、、、ハッキリせん色は好かん!

ブラックもかっこいいけど、男はすぐにブラックを選びがち。

大人気のグリーンは、、思ってたより、なんだか薄いなぁ。

 

ごにょごにょごにょ…」

 

といった具合に、勝手にケチつけたり妬んだり恨んだり羨ましがったりしている。

 

「新型ジムニー」のハッシュタグをフォローしているので、すぐに探すことができる。

だが、ひとつ。

怒りに近いような、なんとも言えない違和感を覚えることが多々ある。

 

新型ジムニーについての投稿ではないのに、そのハッシュタグをつけている投稿がある。

 

女子が、旧型のジムニーをカスタムしている投稿だが、

 

おい、それは新型ジムニーじゃねーだろ

 

と冷ややかに舌打ちをしている。

 

それはJA22型だろ。

 

しかもその投稿には、必ず自分もカメラに収まっている。

 

俺が思うに、いいね!欲しさにカスタムしてるんじゃねーのかってくらいの頻度である。

取ったり付けたり、そんな頻繁にするもんかね。

 

林道や悪路に突っ込む写真は皆無。

 

○○女子って呼ばれたり自称してるやつらは、総じて薄っぺらい。

承認欲求全開。

 

「わたし、変わってるでしょ?ちょっとヘンでしょ?個性的でしょ?」

 

はいはい。君みたいな女はゴマンといるよ、おめでとう。

誰も言わないので、俺が地球を代表して批判しておく。

 

これはまだマシ。ま、一応ジムニーやからなぁ…と。

 

 

意味が分からんのが、ジムニーどころかクルマすら関係ない飲み会の写真や至極インスタ的インスタ映え狙いのいいね!欠乏症のSNSの世界の中でしか認めてもらえない可哀想な意識高い悟り系ヒューマンですら、ハッシュタグ

 

 

 

 

マジで。

ウザい。

キモい。

 

 

 

お察しの方も多いと思うが、俺の性格は相当悪い。ひねくれている。

小さい男なのだ。

 

先行予約して発売日に契約したにも関わらず、納期すらまだハッキリしない。

怒りと不安に震えている。

俺、ホントに契約したよな?

売店の担当者は、本当にスズキに発注したのか?

なんだか、いろいろ疑いたくもなってくる。

 

「はじめてのクルマ、ハタチ記念に新型ジムニー買ってもらったー!」

 

「かわいい〜!絶対欲しい!何色にしようかな?」

 

なんていう投稿をみると泣きたくなる。

 

ハタチおめでとう!と感動している訳ではない。

 

おい、納期伸びるがな…

 

 

生活にジムニーという車が本当に必要な人間というのは、ごく限られている。

 

無論、俺はそのうちの一人ではない。

 

例えて言うなら、ダイビングなんか絶対しないのに、ダイバーズウォッチを持っているのに近い。

 

 

しかし。

購入の動機なんて何でも良くて、かわいい、かっこいい!はとても大事な要素だ。

パートタイム4WDやラダーフレームやリジットアクスルサスや燃費のことなんて、どうでも良いのだ。

 

 

 

違う見方をすれば、今の日本車には、それだけ魅力的なデザインのクルマがなかったとも言える。

皆無だと言い切ってもいいくらいだ。

 

新型ジムニーは、例えば10年乗っても廃れることのない普遍的なスタイルだと思う。

 

丸っこいボディに、ギラギラと派手なフロントグリル、でかいツリ目ばかりの国産車とは一線を画す。

 

 

我が愛車、ミラジーノの次は何にしようかと思案していた時期があったが、これカッコいいとか、乗りたいとか思えるクルマはなかった。

 

乗っている人がいたら、気を悪くするだろうが、

タントやNボックスなんか、絶対に乗りたくなかった。

カスタム系のオラついた顔つきが人気らしい。

俺の職場にも、一昨年くらいに20代の男子が新車を買うんだと嬉しそうに言っていた。タントカスタムだった。

なぜ若者はあんなクルマに乗りたがるのか。

広い、でかいのは良いことかも知れんが。

 

たぶん俺が8万回生まれ変わっても好きにはなれない。

 

また車検通してジーノに乗り続けるか、同じ型の、ミラジーノターボにしようかと悩んだくらいだ。あとはローバー時代のミニか、JB23型ジムニーが候補だった。

 

先代のJB23型ジムニーは、デザイン的にはそれまでのジムニーとは違い、やや丸くなった。これは好みがハッキリわかれるところだが、エンジンやボディは、マイナーチェンジを繰り返し熟成された。

オフロード性能を犠牲にすることなく、オンロードでの快適性も向上させた。

その走破性は、歴代ジムニーの中でも最強と謳われている。

 

 

イカでいうと、M5みたいなポジション。

 

最終型のJB23にするか新型にするか、かなり迷った。黒いランドベンチャーもかっこいいよなぁ。

 

新型ジムニーの正式な発表は、かなり遅く、ラダーフレームではなくなるとか、パートタイム式4WDでなくFFベースのフルタイム四駆になるとか、スズキのハイブリッド技術であるSエネチャージが標準装備になるとか様々な噂や予想が飛び交った。

しかも、新型車の場合、初期不良が多いとかいう話もある。

 

はて、どーする。

 

 

 

ハスラーが売れたのは、使い勝手や居住性だけでなく、なによりデザインが優れていたからだと思う。ちょっとした悪路くらいなら平気そう。

そんなワクワク感があるクルマは、やはり欲しくなるものだ。

 

新型ジムニーが爆発的人気になり、社会現象と言って良いほどの盛り上がりを見せるなかで、さらに需要は高まると予想される。

 

 

先代のJB23に乗っておられる方は、どんな気持ちで、この「現象」を見ているだろうか。

 

その方達からすれば、俺もミーハーの一人ではあると思う。

 

以前、カメラについて、ファッションじゃねーんだよガキどもが的なことを言ってたが、今では少し違うよ みたいな記事を書いた。

 

人間には、遊びが必要なのよね。

一番身近な遊びっていうのは、ファッションよね。自分が好きなものを身につけて満たされる。高まる。

ニコンでもライカでも、これだ!と思うものを買えばよろし。

手にすることで初めて気付くことも多かろう。

実際に触って、驚いたり感動したり、ガッカリすることもあるかも知れない。

でも、それこそが「遊び」かも。

 

心に余裕がないと、ゆとりがないと、遊ぶことは難しい。

 

クルマのハンドルにもアソビがあるっしょ。洋服にもバッグにも、アソビがあるっしょ。

「アソビを持たせる」って。

 

遊びがあるから、人間は生きていられるのだと思う。

必要最低限、必要最小限の生活って、ワクワクしないよね。

 

やたら批判的な発言が多い俺だけど、かわいい!かっこいい!は、やはり大事。

 

初恋のときを思い出してみよう。

もしかしたらダメかも知れんが、そう簡単には諦められない。

告白するのは、自分次第でもあるが、タイミングなども考慮しなくてはいけない。悩む。悩む。寝ても覚めても悩むのだ。告白することで嫌われないか。オッケーしてくれるだろうか。噂が広まらないか。むしろ、俺は本当にあの子のこと好きなんだろうか。ただの性的衝動なのか?愛とはなんだ?この胸の苦しさは?この嬉しさは?あれ?ニキビ増えた。

 

相手が人間なら大いに悩むべし。その時は、どうしようもなく悩んでも、それが長い人生においては「思い出」と言える時が必ずやって来る。必ず、やってくるのだ。年齢を重ね、心にもお金にも生活にも多少の余裕ができたとき、昔を思い出し、ふと、微笑むのだ。そしてふと、涙を流す。

人生に寄り道は付き物だ。

大いに悩み、迷い、傷をつくり、泣いて、たくさん恋をして、愛し愛されればいい。

 

俺は35歳だが、これからの人生だってたくさん楽しいことが待っているに違いない。

 

15歳のあなた。

25歳の君。

45歳の先輩。

 

悩みは勿論あるが、どうにもならないことだってある。

悩み という暗い長いトンネルを、いくら歩いても抜けられないことだってある。

 

自分の道は、自分で切り拓くものかも知れない。人知れず努力し突き進む人。生まれながらに恵まれた環境にいる人もいるだろう。でも、そんなサバイバルは、きっと、脱落者が出る。

 

自分が目指したところに辿り着けなければ負けというわけではない。隣の芝生は青いけれど、この長い一瞬の人生はゲームなんかじゃない。誰かと競うレースでもない。

 

また違う道を探ってみればいい。路頭に迷い、膝を抱えて静かに泣いてもいい。

そしたら、ひょっこり誰かが顔を出して、笑顔で待ってくれているかもしれない。共に歩む仲間と出会えるかもしれない。メリークリスマス、あなたとの出会いに乾杯しよう。

生きている限り、迷いは続く。生きている限り、選択は続く。

生きている限り、希望は続く。

 

 

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しかし、相手はクルマだ。ジムニーだ。

必要なのは、家族の了承とカネだけだ。

 

契約さえすれば、カネさえ払えば、納期が超絶長かろうが、必ず必ずやってくる。

 

そこが恋のお相手とは違う。

 

悔しくて、「カネさえ払えば…」という夜のお店に走る男性もいるかも知れないが。

 

 

長すぎる納期に耐えきれずに、途中でキャンセルしたとしたら、まぁ所詮、それだけの相手だったってことよ。

 

もし、納車されたら、どんな生活が始まるだろう。ワクワクするね。

 

分かってはいたけど。やっぱり燃費がなぁ…、乗り心地が…

なんて思うこともあるかも知れない

(人間だってそうさ。ふふふ)

 

 

納車されてない俺が言うのもかなり変だが、欲しかったら買うべきだ!

 

今の若者達は皆、俺よりも遥かに自由で、遥かに賢い。

 

どうか、大いに人生を楽しんでいってください。

 

Good luck.

 

Nettar-イコンタ同盟の夏-

夏。

 

 

お盆も過ぎて、風も少し優しくなった。

 

ああ、夏とのサヨナラが近づいている。

 

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どうやら、平成最後の夏らしい。

昭和から平成を跨いだことがあるが、記憶には残っていない。

 

「昭和っぽい」「昭和レトロ」なんて言葉が通用する人が少なくなる日も近い。

 

「平成チック」なんて言葉が生まれるんだろうか。

 

昭和は、古き良き時代みたいに描かれることが多いが、果たして本当にそうだろうか。

不便で貧乏だけど、輝いていた。

 

この、娯楽と稀薄と腐敗と破滅の印象のある平成も、いつかそんな風に美化され、ノスタルジックに語られる。

 

ノスタルジーとは、なんだろう。

 

郷愁を誘う

古き良き時代

 

 

たぶんそんな感覚。

 

実際に自分が体験していなくても、なぜか懐かしく感じるアレです。

 

フィルムカメラにしても、まぁ、懐かしい人には懐かしく、今でも使っている人にとっては、まぁ、やはりカメラでしかない。

 

イカにいたっては、あまりノスタルジーなんてものは感じない。

その見た目も、現代のカメラの原型と言っても良いので、古いとか昭和っぽい、明治っぽい、なんて感じない。

フォーマットだって一般的な35mmフィルムだ。いや、フィルム自体がたぶん一般的ではないけど。

やっと手に入れることができた、という感慨深さは、僅かにあった。

 

私がノスタルジーを感じるのは、やはりイコンタだ。

もちろん当時リアルタイムで使っていた訳ではないし、懐かしいなんて感覚もない。

古き良き時代に生まれた過去の遺物という、未知への憧れ。蛇腹カメラ。

 

とはいっても、当時は戦争の時代であったはず。世界恐慌も1930年代だ、たぶん。

 

35mmフィルムを使用する小型カメラが普及し、中判カメラは徐々に衰退していく。

1930年代、既に中判カメラは旧時代のカメラになったと推測している。

 

そんなモノを、コツコツと収集し喜んでいる奴が、2018年、世界中にいる。

80年以上前のモノを。

 

私が現在所有している中判カメラは、3台。

そのうち2台は壊れている。玄関のオブジェになって、来客を驚かせたり訝しませている。

 

スーパーシックスは、シャッターも全速切れるし、絞り羽根も綺麗で、問題なく作動する。

もちろん、蛇腹に穴などあいていない。

 

外に持ち出す機会は少ない。

大体、いつものリビングやキッチンで妻を撮っている。

「そんなので本当に撮れるの?」と、妻は面白がっていたが、現像すると何の問題もなく写っている。いや、写し出している。

 

「すごいねー!すごいよ!」

 

妻は珍しく興奮気味。感動していた。

 

 

 

 

フィルムカメラで一枚一枚、丁寧にジックリ撮る、というスタンスが、若者にとっては新鮮で、ノスタルジーを感じさせているのだと思う。

 

私は、現在は35mmフィルムで一枚一枚を、という感覚は小さくなった。

むしろ逆で、丁寧に撮らないことを無意識のうちに意識している。

極端な斜め構図や手ブレや、なんだか観念めいた被写体、意味ありげな、なぞなぞ写真は撮らないように気をつけている。

 

ストリートスナップも撮らない。

残念ながら若い女はみんな、マスクを付けているしスマホをいじっている。

 

無意識、無防備、無表情を撮ることに、喜びはほとんど感じない。

 

中判のイコンタでは、最低限の丁寧さをもってジックリ撮る。

とりあえずピントはちゃんと合わせる。手ブレに気をつける。

 

スーパーシックスは11枚しか撮れないので、出来ることなら失敗はしたくない。

 

日本でも60年代、中判カメラ及び蛇腹カメラが流行したらしい。

東京オリンピックニコンFが一眼レフカメラの優位性を世界中に示した余韻が残っていたはずだし35mmフィルムもかなり普及していたと思われるが。恐らく高価なモノであったんだろう。

中判フィルムを使用する蛇腹カメラや国産二眼レフカメラは、庶民の味方だったようだ。

 

 

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もっと気軽に中判で撮りたい。

ふらっと散歩に持っていきたいが、スーパーシックスはどうも違うような気がする。

もうひとつ中判カメラが欲しい。

 

そう思っていた。

 

見た目がかわいい二眼レフカメラでもいいけど、どうせ安い国産メーカーのものを買っても、必ずローライフレックスが欲しくなる。

 

やっぱり軽くてコンパクトな蛇腹カメラしかないと思い、ヤフーオークションを物色していた。

小西六のパールや

マミヤシックスや

フォクトレンダーのものや

コダックのレチナなど、

値段は別にすれば、選び放題だ。

国内外メーカー問わず、こんなにも蛇腹カメラがあったのかと驚く。

 

イコンタは流石に高値で、思いつきで買うには勇気がいる。(イコンタ同盟 なのに)

 

落札したのは、ZEISS IKON 515 

どうやらセミイコンタの廉価版らしい。

 

Nettar Anastigmat

 

グーグルで調べてみると、16枚撮れるらしい。

 

これは良さそうだぞー!

 

 

「いい写真」

 

 

「いい写真だね」

 

 

ありがたいことに、この言葉を今まで何度かは言ってもらったことがある。

 

 

何かに例えたり、小難しい専門用語や四字熟語を使った言葉よりも、そんなシンプルな褒め言葉が、一番、嬉しい。

 

 

 

眼球譚

 

なぜ、モノクロフィルムで撮るのか。

そもそも、なぜフィルムで撮るのか。

 

始まりは、ふとしたきっかけだったと思う。

 

物事や事物の理由や意味を突き詰めていくと、今、自分が生きているということ、存在しているということにすら疑問を持たずにはいられない。

 

我思う、ゆえに我あり

というのは、デカルトの言葉である。

 

 

 

さっきGoogleで調べたから間違いない。

 

 

 

 

この言葉は、サルトルの「嘔吐」という作品の中で主人公のロカンタンが呟いていたと記憶している。

 

 

故・開高健が「嘔吐」を読んで、

ひとつひとつの言葉、文字が勃起してみえる

と評した。

 

自分の中でも、読書の新たな扉を開いたような気がした。

 

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」にもチャレンジしたが、さっぱり分からなかった。

 

私の言語の限界が、私の世界の限界である。

 

たしかこんな言葉だったかな?

 

これも妙に納得する言葉。

 

つまり、おおよそ知り得ないことについては語ることや思考することすらできない。

 

たぶん。

解釈が合ってるかどうか分からん。

 

この言葉と、ジョージ・オーウェルの「1984年」とが見事にリンクした瞬間だった。

 

 

なぜ写真を撮るのか。

なぜフィルムで撮るのか。

なぜモノクロか。

 

デジタル写真は写真ではないのか。

なぜそう言えるのか。

なぜそう言えないのか。

 

フィルムで撮れば本物なのか。

真実を写すのが写真なのか。

写真は、真実を写しているのか。

 

 

モノクロで撮れば真実なのか。

 

 

 

色彩を排除した時点で現実とはかけ離れている。

 

カラーで撮っても、実際に人間の目で見た色味とは異なる場合もある。

 

ならば、写真には一体なにが写っているのか。

 

写真の意味を考えることは、無意味なのか。

 

無意味なことに、意味はないのか。

 

意味がないことは、無駄なのか。

 

 

そもそも真実とは、何なのか。

 

みんな、悩んでいる。

 

人に同意を求めたり、批判したりしながら、自分が間違っていないかを測る術を探している。

 

 

 

ただ、人差し指でシャッターを切るだけのことなのに。

 

俺の眼球はどこを見ている。

 

 

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俺の左眼は、斜視のせいで、いつも外側を向いている。

 

人と目を合わせることや、顔を見て話すことは、とてつもなく苦痛である。

赤の他人に勃起した下半身を見られるよりも恥ずかしい。

 

両眼視・立体視できないので、おそらく他人が見ている世界と俺の世界には、違いがあると思われる。隔たりがあると思われる。

 

距離感を掴むことも、得意ではない。

 

残念ながら3D映画やVRゲームは、一生楽しむことができない。

 

右目でファインダーを覗いていれば、普通は左目は閉じているものだろうが、俺の場合、左眼が開いていようと閉じていようと、意識しなければ左眼の視界はゼロに近い。

力なく瞼を開いたまま、死人の目のようにどこかを見ている。

 

左目でみようとすれば、今度は右目の視界が奪われる。

 

いくら両目で見ようとしても、中央へ寄り目になって、前方の視界はボヤけるだけだ。

まっすぐに前を見ようとしない両目に、悔しくて腹が立って泣いたこともある。

 

だから、写真を撮られるのはすごく嫌だ。

面接や証明写真を撮るときなんか、必死だ。

 

 

親や兄弟にすら馬鹿にされたことだってある。

 

恨んではいない。

だが、俺は一生忘れない。

 

人を傷つけることは、とても簡単だ。

 

この俺の気持ちなど、普通の人には誰にも分からないだろう。

他人の目が怖くて、顔を背けながら、ひねくれながら、35年間生きている。

 

心の奥底の一部に冷たい風が吹いて、静かに加速度的に侵食していく。壊死していく。

死んだ心は、生き返らない。

 

 

なんだか暗い話になった。

 

他人に自分の眼のことについて話したことは今まで一度もない。

みんな気づいているだろうが、何も言わない。

 

妻とは結婚する前に、話した。

こんな俺でいいのか、と。

 

初めて人に話した。怖くて手と声が震えた。

 

妻は、気づいてたけど、そんなことどうだっていいやん!と笑いながら泣いた。

私は、アナタのその目が好きだと言ってくれた。

 

俺と結婚してくれた妻に感謝する。

愛している。

 

 

 

コンプレックスが武器になる

 

それが、慰めの言葉でしかないことを知っている。今後もそれは変わらない。救いようがないこともある。

 

現実は、苦痛の連続だ。

 

左眼をえぐり出してやりたいと思うこともあった。

 

 

目の前にある世界を、ただ「見る」という行為すら、特別なことだと感じる瞬間がたまにある。

 

写真行為によって世界が平面化される。
それは、俺がいつも見ている世界に、たぶん近い。

 

 

ファインダーやレンズは、俺の眼球そのものだ。